蔵王古道

  • youtube
  • facebook

蔵王古道宝沢口詳細地図

このパンフレットは「やまがた緑環境税」を活用し作成しております。表紙写真/蔵王山山頂 蔵王山神社より宝沢地区を望む。表紙題字/色彩のあーと書道家 未來 筆 2023.01
※この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000を拡大編集したものである。(承認番号 令1東複、第28号)

蔵王で見られる高山植物

蔵王の四季を彩る、個性豊かな花々がお出迎え。

越戸(コエド)コース

蔵王古道宝沢口一合目行別れ地蔵は蔵王山神社に詣でる道と蔵王温泉に向かう道とに分かれる場所になっている。以前、山形城下から蔵王を詣でる最短の道として歩かれた蔵王古道宝沢口と同様にコエド越えコースは蔵王温泉(高湯温泉)への最短の道であった。現在は、宝沢口から瀧山に登るコースとして親しまれており、登るにつれ杉林からカラ松林、そしてブナ林と植生が変わり、コエドの峰からは蔵王に広がる蔵王温泉やスキー場が一望できる。一泊二日とはなるが、蔵王山神社は、須川温泉神社、瀧山神社とともに三社一宮をなしており、宝沢口から瀧山、そして蔵王温泉の須川温泉神社に詣でて蔵王温泉に宿泊、未明に暁登山で熊野岳を目指し蔵王山神社に詣で宝沢口に下る周回登山なども楽しめる。

宝沢のある史跡に沿うて

  • ①五度坂

    平安時代の末期、京の一条院の豊丸姫が信仰する清水観音から夫となる人は羽州宝沢の炭焼藤太であるとのお告げを受け、京から宝沢まで遠い旅路を辿ってきた。馬見ヶ崎沿いに坂を登っていくと山坂の道があった。藤太の所まで辿り着くまでに思案して五度も行ったり、戻ったりしたことから五度坂と言われている。

  • ②宝蔵院(太子宮)

    源義家が清原武衡・家衡を討伐の際に軍神として当地に聖徳太子を祀った太子堂の宮がある。宝沢十二坊の一つである。

  • ③姫沢

    豊丸姫が五度坂を過ぎて右の方の沢を見ると煙が立ち上っている。嬉しやここが藤太の住む里かと沢を登ってみると炭焼き小屋があるだけだった。仕方なく姫はその沢を引き返したのである。今でもこの沢を姫沢と呼ぶ。

  • ④蔵王大権現(苅田嶺神社)

    蔵王山岳信仰の登拝口の一つである宝沢の口に苅田嶺神社があり、色青黒く三眼二臂の怒りにもえた、高さ3.64mの巨大な木造の蔵王大権現が鎮座している。ご本尊はお釈迦様で神仏習合時代の名残りでもあり、修験道(山伏達)における日本独特の神である。権現とは、仏が民衆を救うため姿を変えて権(かり)に神として日本に現れたもの。
    伝記によると、別当井上太郎太夫の子として覚山行者が山伏となって諸国の山々で修業をし、吉野金峯山(奈良県)で蔵王権現を拝した時に、夢の中に権現が現れ、「役の行者小角が羽黒山で修業したときに刈田嶺(現在の熊野岳)に蔵王権現を勧請したので、早く国に帰ってその山を開け」との事によりその通り行い、麓に万福山と号する寺を建立した。それより苅田嶺を蔵王山と呼ぶようになったという。
    蔵王権現は、全身悪魔調伏(仏の力で悪魔を降伏する)という姿で屹立しており、左手は刀印を結んで腰につけ、右手は三鈷杵を奉持して頭上高く掲げ、左足は盤石を踏み、右足は空中を躍らす山上の湧出岩から躍り出た姿を表したものとされる。
    この権現の制作年月や作者並びに現社殿の建立などは一切分からない。
    明治3年の神仏分離により、蔵王神社となるが昭和28年に苅田嶺神社に改称した。蔵王権現は、水の神、五穀豊穣の神、延命息災、増福円満の神として信仰されている。
    なお、江戸時代に山形城主松平大和守忠弘の社寺領改めの際に上申して、徳川家光(3代)将軍より、宝沢四社(藤太宮、蔵王権現、太子宮、雷宮)に対し、御朱印 三石八斗五升を下賜された。その後、吉宗(8代)、家斉(11代)、家定(13代)、家茂(14代)将軍より同様に御朱印が下賜されており、御朱印状が残されている。

  • ⑤賀茂雷神社(雷宮)

    延文五年(1361年)山形城主修理大夫斯波兼頼が神夢により、京都上加茂明神を勧請したもので、馬見ヶ崎川は京都の鴨川にやや似ており、山形の形状等も上加茂と同じこの土地を選んだと伝えられている。お祭神は分雷神(わけいかずちのかみ)であり、「あーめたんもれ雨たもれ、雷神様から雨もらた」と叫びながら旱魃の時に近郊の農民が多勢むしろ旗を立てて参拝し雨乞いの行事を行った。水神としての崇敬の他、武士の尊敬も厚く武運長久として領主堀田藩の祈願所として庇護された。雷神社境内には、樹齢約500年の欅の御神木、社殿内には横:3.08m、縦:1.48mの蔵王信仰(お東詣)の大絵馬が明治33年に奉納されている。別当は、三明院だったが、昭和に入って金井三好法印が廃絶した。

  • ⑥横山清左衛門の墓(妙泉寺)

    下宝沢妙泉寺前庭に「当時開基玉庵栄光居士」承応2年8月13日(1654年)と刻した義民の横山清左衛門の墓がある。横山家は当時代々の名主であり、清左衛門は資性義侠の心強く、寛永年間(1641~1643年頃)飢饉の時、村民が重税に苦しむのを見かね年貢上納の村高五分引の減税を願い出た。役人も命を懸けた清左衛門の熱意に動かされ村高五分引の減税受け入れ、明治時代まで続いた。ところが、承応2年8月13日、清左衛門は突然村から姿を消した。ひそかに暗殺されたとも言われている。村人は失踪の日を命日として、功績に感謝し「清左衛門講」と称し、毎年寺で南瓜汁を食べて施餓鬼を行い340年余の長い間供養してきた。

  • ⑦股旅の清水(すず)

    豊丸姫は疲れた足取りでなおも山路を辿っていくと、こんこんと湧き出る泉があった。姫は大いに喜びその水を飲み旅の疲れをいやした。この水は「股旅の清水」と呼ばれ、手鏡と櫛を置いていったと伝えられている。

  • ⑧住吉神社(吉蔵院)(藤太宮)

    建久二年(1190年)炭焼藤太の四男喜藤太信正が父母の霊を住吉大明神として奉斎。大正五年(1916年)熊野神社、山神社合祀する。
    鳥羽天皇の御代、炭焼藤太は、羽州金井庄宝沢の里に住んでおり、毎日炭を背負って寒河江や白岩の里まで炭売りを生活の糧としていた。京の一条院の豊丸姫が藤太の里に辿り着き事情を話して妻となった。
    藤太には、長男:吉治信高(1124.9.20生)、次男:吉内信氏(1143.6.12生)、三男:吉六信義(1145.7.19生)と言う三人の子供がおった。吉治は、源義経に仕えた金売吉治である。三人の兄弟は、京都に金売りに通ったが、後世奥州白坂(福島県白河市白坂)で盗賊熊坂長範のために殺害された。その後、藤太夫婦が清水観音に祈願し豊丸姫五十七歳で四男:喜藤太信正を生んだ(1169.4月)。その子孫が住吉神社宮司宝崎家であると伝えられている。
    藤太夫婦は、四男喜藤太信正の誕生の後、深山に入ると言い伝え、その後行くえ知れず、喜藤太信正は両親(藤太83歳、豊丸姫78歳)を祭った。この地の人々、藤太夫婦の偉徳をしのび住吉明神と称し、また氏神として奉斎し今に至る。
    この地に住む人々、豊丸姫の徳をしのび、清水観音の化身なりと敬い、また熊坂のために殺害された金売吉次、吉内、吉六の御子たちをも祭り冥福を祈らんと、裏山に二百余段の石段を造り御堂を建立して祀り、観音堂と称した。

蔵王古道の登山道に沿うて

蔵王山は往古から苅田嶺として神格化され、神仏習合後は蔵王大権現のお山として近世に入り、山岳信仰が深まるにつれ、蔵王大権現登拝者が著しく増加した。その登拝路にはいろいろ名所や伝説が残されている。この地は、蔵王信仰の発祥の地と言われ、蔵王登山の宝沢の口として知られ、山岳信仰の華やかな時は宝沢十二坊と称し、山伏が栄えた。坊原の坊、宝蔵坊、三条坊、三明坊、吉蔵坊、小塩坊、夏の坊、聖坊、滝の坊などがあったと伝えられている。近代まで残ったのは、宝蔵坊(宝蔵院)、三条坊(三乗院)〈蔵王大権現〉、三明坊(三明院)〈賀茂雷神社〉、吉蔵坊(吉蔵院)〈住吉神社〉だったと言う。

  • ①蔵王権現塔(登山口)

    地区最大の蔵王権現塔は、高さ2.7M、幅2.15Mあり、県道と蔵王山登拝路の分岐点に位置し、熊野岳登拝の出発点である。蔵王権現碑は、旧東沢村八か所に10基、この外に山頂の熊野岳に10基ある。いずれも蔵王山信仰の盛んな時期に造立したもので、水の神、五穀豊穣の神、また延命息災、増福円満の神として崇敬された。

  • ②王子権現(姥神)

    分岐点から100m程登ったところの字王子堂に王子権現を祀った四体の万年堂がある。王子信仰は神が貴い幼児の姿で現れるという信仰で熊野権現の勧請されたところに随伴して祀られる例が多い。東京都王子区等の地名も王子信仰に関連している。 また、この境内に石の姥神と「一の木戸」と刻まれた石灯篭がある。 山岳宗教の山は、女人禁制であったため、入山できない女人の一の木戸という事で、蔵王権現の代わりに姥神を参拝したのではなかろうかと考えられる。

  • ③行別れ地蔵(一合目)

    県道から蔵王山への登山道を約1Km辿ると、右は龍山経由蔵王温泉へと左は蔵王山に登る本道に分かれる分岐点に造立されているのが、行別れ地蔵である。登山道の一合目に位置する。この地蔵の由来は分からないが、1804年上宝沢村養福寺の念仏講中によって建てられた。「行別れ」の名称は、蔵王登拝路と高湯温泉との別れ道にちなんで、俗人と行者の別れの地、俗界と神仏界、現世と来世の境と言う信仰的な着想かとも考えられる。

  • ④垢離場(二合目)

    冷水流れる垢離場である。白衣姿の行者達は、装束を脱ぎ高さ10数メートルからの滝行を行い、身を清め心霊豊かな蔵王参詣に向かったという。賀茂雷神社の大絵馬にも、白衣姿から裸になって身を清めている姿が描かれている。現在の滝は、下流に砂防ダムができて川床が高くなったといわれ、当時は現在より5,6メートル高かったらしい。

  • ⑤唄の沢(三合目

    修験者覚山がこの地に来た時、一人の僧が金色の姿に変身し、瓔珞荘厳な衣を翻して、幽谷に飛び去った。後を追い下ると御沢88,000仏が並んでいた。右側にいた白衣の女に問うと「私は昔遊女で姿が奇麗だったので人々は迷った。その罪で今は地獄に落ちたのです。私だけではなく、他の人々も同様です。行者様みんなを救ってください。」と答え腹ばいになり幽谷に入った。覚山が更に谷に下ってみると、地の底に数百人悲しみ泣き叫び、谷間にその声が響き渡っていた。これを聞いた覚山は、哀しさのあまり加持して秘宝呪を唱えた。

  • ⑥不動滝(四合目)

    登山道四合目に「不動滝」があり、滝の高さは約15m。昔、源義家が阿部貞任との戦いにここまで進軍してきたとき、突然雷鳴とどろき、大暴風雨となったという。その時義家は守り本尊の不動明王を取出して滝の前に安置し、一心に祈願を続けたところ忽ち暴風雨は収まったのでここに不動尊を祀り不動滝と名付けたといわれる。斯波兼頼は霊験あらたかな不動滝不動を山形城に勧請した。後世、歩町(宮町一丁目)に移し祀ったという。

  • ⑦独鈷沼(五合目)

    沼は、水の神として辺に三乗院七代住職(修験)義重が造立した水神の石碑がある。
    独鈷沼の由来は不明だが、伝説によれば、覚山が蔵王山に登っていくうちに、長髪の僧と出会いお前が来るのを待っておった。との答えを聞いて、本地のご尊体を拝し奉った。
    なお、悲しむ衆生を救うため、山中の岩石を刻んで地蔵菩薩の尊像を安置し、焦熱地獄から人々を救いその身心を洗い清めるため、清浄の水を求めて、独鈷で地を掘ったところ、忽ち清水が湧き出た。そこで、この池を独鈷の池と名付けた。(抜粋)

  • ⑧紅葉峠(六合目)

    花の色どりは、色即是空の匂いが鮮やかである。片貝沼を始め、うつぼ沼、目玉沼などの沼群があり、色とりどりの花が咲き乱れる風光明媚なところである。

  • ⑨懺悔(ザンゲ)坂(七合目)

    「懺悔」(さんげ)とは、宗教における神聖なる存在の前で、罪の告白をし、悔い改めることをいう。のだそうです。 懺悔坂は、7合目に位置し、神聖なる信仰の心構えとして、これまでの行動に対する懺悔を行って洗心し、熊野岳の登頂を目指したものと思われる。また、蔵王スキー場の樹氷原コースにあり、樹氷が雪の重みで頭を垂れて懺悔しているように見える姿から名付けられたとも言われている。

  • ⑩地蔵尊(八合目)

    蔵王地蔵尊は、標高約1660mの蔵王山中腹に鎮座する丈六石地蔵尊であり、本来この地蔵は「子安地蔵」とみられている。大きさは、高さ2ⅿ、肩幅1.2ⅿ、膝幅1.8ⅿ、台座34㎝あり 元文3年(1738年)地蔵岳のお花畑に一丈六尺の石地蔵を造立することについて、相対勧化の許可願が蔵王寺(三乗院)から奉行所に差し出され、安永4年(1775年)地蔵岳に丈六石地蔵造立された。造立の時、上宝沢村の力自慢の藤吉が地蔵の頭を背負い、3人の者が綱で引いて山を登ったという。
    また、言い伝えによると、上宝沢の山川つまさんの生家である妙見寺の鈴木九兵衛の祖先に子宝が恵まれない者がいて、子供が授かるように祈願して地蔵尊を造ったと言う。昔の冬などの天候急変による遭難者が多く出たので遭難供養の地蔵という説があり、造立後遭難者が少なくなったことから誰言うともなく「災難除け地蔵」と呼ばれるようになった。現在は、蔵王地蔵尊保存会により毎年春(4月24日)、秋(9月24日)に祭礼を実施し、災難除け、諸願成就を祈願している。

  • ⑪ワサ(和三)小屋(九合目)

    熊野岳山頂に至る登山道、神社への参拝道で最後の上り口にあたるこの場所は、「ワサ小屋跡」と呼ばれ、おワサさんという老婆がここにあった山小屋の番をしており、参拝者の面倒をみていたといわれています。この土地は蔵王山神社の敷地で、ひと頃は参拝者に対してここで水を提供していたといいます。
    その昔、三途の川のほとりで衣をはぐという婆という伝説があり、そこから先は「女人禁制」であったという言い伝えがあります。立ち膝にギョロ眼、大きく開いた口の端から牙をむき出して、入山するものをとがめているようです。
    この姥神、通称ヤマンバ様の石像がここにいつの頃から居るのかは不明である。

  • ⑫熊野岳(蔵王山神社)(十合目)

    地所は、山形市大字上宝沢2762-1。蔵王連峰主峰である標高1841メートルの熊野岳山頂にある神社。役の小角が羽黒山に登ったときに金峯山の金剛蔵王大権現を熊野岳に勧請し開山されたと伝えられた由来により蔵王山と呼ばれるようになった。和銅元年(708年)、熊野岳に熊野神社が建立され、後年熊野権現と白山権現も勧請されて山の鎮守として祀られていた。
    和銅5年(712年)覚山行者が吉野金峯山に登った際、夢に権現が現れお前の故郷に昔、役の小角が羽黒山に登ったとき、蔵王権現を勧請した霊山がある、帰って再開山するようにと言われ、故郷に戻り蔵王山を再開山したという。下宝沢の三乗院が建立されて山岳修験の拠点となり、蔵王信仰の最盛期には宝沢十二坊もあって、修験(山伏)が案内役を務めたという。明治33年に山形市近郊の蔵王山講中が奉納した「蔵王山参詣」登山の有様を描いた大奉納額がある。西のお山「湯殿山信仰」に対して、東のお山「蔵王山信仰」の文化遺産が多く残されている。
    例祭は7月第2日曜日。天水分神(あめのみくまりのかみ)を主神とし、一般庶民から水の神、山の神、田の神、農業の神として信仰されてきた。
    祭祀されている苅田嶺神社(当時、今の蔵王一帯を苅田嶺と称す)即ち、蔵王大権現本宮が寛文12年(1672年)火災に遭い現在の口の宮(三乗院)に御祭神を遷座し祀られ現在に至る。昭和27年(1952年)、当社は熊野神社から現社号に改称した。
    この解説は、苅田嶺神社(蔵王神社)縁起〈東沢郷土研究会〉及び東沢の歴史散歩道〈東沢地区振興会〉、唐松観音とその周辺〈東沢郷土研究会〉等より抜粋記載しました。

ページのトップへ戻る